石造りの古風な橋が架けられた川のたもとに、その小さな居酒屋はあった。夕暮れ時の
薄暗がりの中に力強い墨跡で「酒処」と書かれた赤い提灯が、ぼんやりと灯っている。
5〜6人も客が入れば一杯になるような狭い店だった。煤けて黒ずんだ壁に貼られた、
茶色く変色した品書きが裸電球の黄色い光に照らされいる。薄暗い店の奥には、細い階
段があり、そこを上がると四畳半の小さな座敷がひとつだけあった。

この店の親爺は剛蔵の幼な友だちである。赤茶けた古畳に丸いちゃぶ台が置かれただけ
の殺風景ではあるが、どこか昔懐かしい匂いのする、この四畳半の部屋が剛蔵は好きで、
折に触れては此処を訪れる。

そして今宵も剛蔵は、開け放した障子窓の間から静かに流れゆく川を眺めながら、ゆっ
くりとぐい呑みを傾けていた。

「さっ、もひとつどうぞ。」

着物の袂から覗く白い腕先が艶めかしい。帯を解かれて着くずれた裾先から覗く真っ白
な太股が、ぞっとする程の艶気を醸し出している。

「ふふふ・・考えてみると、おまえも随分、恐ろしい女だなぁ、瑞恵」

最前から、剛蔵に甘えるようにしなだれかかって酌をしているのは瑞恵であった。瑞恵
もこの店の親爺同様、剛蔵の幼馴染みであった。小さい頃から、七歳ほど歳の離れた剛
蔵に何故か懐いて一緒に良く遊んで貰ったものである。剛蔵も、そんな瑞恵を妹分のよ
うに可愛がっていたのだった。思えば瑞恵が何時しか嗜虐に喜びを覚えるようになった
性癖も、この剛蔵との長い付き合いの中で、知らず知らずに芽生え育っていったのかも
知れない。

「うふふ・・・そうかしら?でも剛蔵さんに言われても、ちっとも悪い気はしなくてよ。」

妖艶な笑みを浮かべて答える瑞恵に剛蔵は苦笑しながら、注がれた酒をぐっと飲み干す。

「しかし、今度の計画を聞いたときは、さすがの俺も舌を巻いたものだ。」

「でも、今回の獲物は最高でしょ?雪乃と千鶴・・うふふ、考えただけでも、ぞくぞく
しましたわ。」

「ふふふ・・・、名の有る老舗旅館の美人女将と、その妹だからな。その美人姉妹を淫欲
地獄に堕とすばかりか、雪乃を淫売女将に仕込んで、千鶴共々、その肉体で稼がそうって
訳だから、恐れ入る。」

剛蔵の差し出した、空のぐい呑みを注ぎ足しながら瑞恵は話を続ける。

「そればかりか、「山吹屋」の土地、建物も全部取り上げてやるの。目障りな商売敵が消
えて、まさに一石二鳥って訳ですわ。」

「おまえに目を付けられた雪乃と千鶴にとっては、とんだ災難って訳か。」

「餌にした千鶴に、まんまと引っ掛かったのが雪乃の運の尽きですわ。雪乃さえ最初に押
さえときゃ、千鶴はどうにでも料理出来ましてよ。うふふふ・・・、「桜風会」で乙に澄
まし込んでた、いけ好かない雪乃に、とことん赤っ恥かかせて泣かしてやるわ。そして可
愛い妹、千鶴の浅ましく変わり果てた姿を見せつけてやりますの。」

「瑞恵、おまえって奴は、やっぱり怖い女だ!ははは・・」

瑞恵をからかって、楽しそうに笑う剛蔵。

「あら、剛蔵さん、そんな憎まれ口言ってないで、これからも瑞恵を助けてくださいな。」

ちらりと艶っぽい目で剛蔵を睨んでみせる。瑞恵の手が何時しか剛蔵の股間を愛しそうに
撫でていた。白魚のような指先が剛蔵の男根を掴みだし、ゆっくりとしごき始める。やがて
瑞恵の貌が剛蔵の股間に覆い被さっていった。

「うぅっ!」

瑞恵のねっとりと絡みつく舌技に思わず声をあげる剛蔵。そんな剛蔵を上目遣いに見やる
姿からは、成熟した女にしか出せない濃厚な艶気が立ちのぼっていた。

(ふふっ、これが雪乃と千鶴を地獄に堕としてくれるのね。)

瑞恵の舌の動きが一層熱を帯びて激しくなる。そのうち瑞恵の唇が剛蔵の男根を包み込み、
くちゅくちゅと淫猥な音を立て始めた。

(うぅーーっ、瑞恵が、こんな凄い女になるなんて・・・)

剛蔵は、じっと目を閉じ、少女だった頃の瑞恵の姿を思い浮かべていた。



                @@@


あの日、雪乃の哀しげな後ろ姿を見送ってから、やがて一週間が経とうとしていた。女将
不在の「山吹屋」では千鶴が姉の代役となって、その勤めを果たしていたが、いつまで待
っても戻らぬ姉の事が心配で気の休まる暇もなかった。

一人の女が千鶴を尋ねて来たのは、そんな或る日の昼下がりだった。女は千鶴に携えてき
た風呂敷包みを手渡すと、「泉水」の女将に会えば雪乃の事が分かるとだけ告げ、逃げる
ように帰って行った。そして不吉な予感に怯えながら、風呂敷包みを解いた千鶴の目に映
った物は、雪乃が最後に身に付けていた着物だったのである。

(あぁーっ!お姉さん・・・)

まるで、まだ姉の温もりが残っているような、その着物を頬に押し当てた千鶴の目から涙
がこぼれた。

(なにが・・・何があったと言うの・・お姉さん・・とにかく「泉水」の女将さんに会っ
てみよう・・・)

千鶴は急いで身支度を整えると、秋の陽射しの中へと歩み出た。



「泉水」の奥座敷は深と静まりかえっていた。庭の獅子脅しがたてる乾いた、こーんと言
う響きだけが、やけに大きく聞こえてくる。

「ご免なさいね、千鶴さん。突然あんな使いを寄越したりして、さぞ、びっくりなさった
でしょ?さぁ、そんなに固くならないでお楽になさって!」

優しげに微笑みながら瑞恵が口を開いた。

「あ、あの・・・こちらに伺えば、お姉さんの事を教えて頂けると・・・女将さん、御存
知でしたら、教えてください!お願いです!」

瑞恵の匂う様な艶気と貫禄ある女将姿に気押されて、千鶴の言葉もうわずっている。

(うふふ・・・可愛い子だわ。)

「ええ、雪乃さんが、今どうしてらっしゃるかは、良く存じ上げておりますのよ。」

瑞恵の貌に悪戯っぽい笑みが浮かんだ。

「姉は、姉は元気なのですか?今、何処にいるんですか?教えてください女将さん!」

急き込むように問いただす千鶴。

「まぁ、まぁ、落ち着いてお話しましょうよ!雪乃さんはお元気よ。でも千鶴さんには信
じられないようなお話ですから、私も話しづらくて・・・」

「ど、どうぞ、おっしゃってくださいまし、どんなお話でも私は大丈夫ですわ!」

「そうね、それを話す為に、わざわざ此処まで来て頂いたんですものね。千鶴さんが大丈
夫とおっしゃるならお話致しますわ。」

瑞恵は、千鶴の青ざめた貌を、妖艶な眼差しでじっと見つめる。

「うふふ・・・、実を言うとね、雪乃さんは、いま私が飼ってますのよ。」

「えっ?」

にわかには瑞恵の言葉の意味が分からず、怪訝な貌で聞き返す千鶴。

「ふふっ、雪乃さんが、あなたの身代わりに剛蔵さんの妾になったのは当然、千鶴さんも
御存知よね。最初は嫌々だったでしょうけど、今ではすっかり剛蔵さんの虜になってしま
ったの。思えば、それも無理のない話だわね、あの若さで老舗旅館の女将として勤めて行
くには、さぞや自分を犠牲にする処もあったでしょうし・・・まぁ、そんな訳で、いまで
はすっかり肉欲の奴隷になって、男を喰わえ込む為なら、なんでもやる浅ましい女に成り
果ててしまったのよ。」

「う、嘘ですっ!お姉さんは、そんな・・そんな人じゃないわ!」

悲鳴に近い千鶴の叫びだった。

「あら、嘘なんかじゃないのよ。ここに、雪乃さんを撮した写真もあるの。ご覧になった
ら私の言ってる事が本当だって信じて頂けるかしら?」

瑞恵は、用意していた写真を千鶴の前に並べてみせた。それは瑞恵が雪乃に指示を出しな
がら撮した物である。剛蔵の膝に抱きあげられて、うっとりした貌でディープキスを交わ
している写真や、逞しい男根に頬摺りしながら、にっこりと笑っている写真、中には雪乃
と剛蔵が交わり合っている猥褻極まりない局部の結合写真まであった。

「いやぁーーーっ!」

千鶴は写真から貌を背けて、激しく泣きじゃくる。

(あぁーーっ、姉さんは、きっと、この人たちに無理矢理こんな写真を撮らされたのね、
どんなに辛かったでしょう・・)

姉を信じる千鶴の涙が、止めどなく溢れ出た。

「あ、あなた方は、人でなしだわ!こんな酷い事を・・・今すぐ、姉さんを返して!」

怒りに震えながら、瑞恵に詰め寄る千鶴。だが瑞恵は落ち着き払ったまま冷たい笑みを浮
かべて千鶴を見やっている。千鶴は、そんな瑞恵に底知れぬ恐怖を感じるのだった。

「うふふ・・・怒った貌もなかなか可愛くてよ、千鶴さん。確かにあなたが言うように私
たちは人でなしかもしれませんわ。でもね、雪乃さんだってもう人間じゃないのよ、あな
たが信じようと信じまいとね。」

「いったい・・あなた方は姉を、姉をどうしようとおっしゃるの!」

「あなたのお姉さんはね、これから淫売牝女将として働いて貰う事になるの。淫売牝女将
ってどんなのかお分かりになって?女将みずから、客の前で恥ずかしい芸を披露したり、
生尺サービスなんかしてお客さんに喜んで頂くの。うふふ・・・でも、ここまでは無料サ
ービス、牝女将の本当のサービスは、この後、金を貰ってお客様に抱いて頂く事ですのよ!」

「そんな、そんな・・・あんまりだわ!」

あまりのショックに千鶴は、もう言葉も出てこない。

「あら、これもみんな雪乃さんには承知して頂いた上での話なんですのよ。それだけじゃ
なくてよ、「山吹屋」の土地建物もすべて私に譲ってくださる事になってますの!」

「ば、馬鹿な・・「山吹屋」の暖簾が、そう簡単に人手に渡せるもんですか!」

きっ!と瑞恵を睨み据える千鶴。

「ふん、可愛い貌して、案外気の強いとこがあるんだねぇ、いいかい、よくお聞き!あと
一週間も経てば雪乃には、同業者の前で、淫売牝女将就任の御披露目して貰う事になって
るんだよ!「山吹屋」だって、それ相応に生まれ変わってもらうのさ!そうなりゃ雪乃も
あんたも、もう今までみたいな訳にはいかないのよ!」

穏やかだった瑞恵の声が、凄みのある低い声に変わる。

「ところで、そろそろ本題に入ろうかねぇ、千鶴。雪乃一人に客の相手をさせるのは、妹
として辛いだろう?毎晩何人もの客に抱かれなきゃならないんだから、雪乃だけだと、す
ぐに体がボロボロになってしまうよ!姉さんの事を思うなら、あんたも雪乃同様、犬畜生
の身分に堕ちて姉さん助ける気にならないかい?」

(うぅっ!な、なんて事を・・)

千鶴は、余りにも無茶苦茶な話に、ただ呆然となるばかりであった。そんな千鶴を意地悪
い眼差しで見つめながら、瑞恵は再び穏やかな口調に戻って話を続ける。

「考えてもごらんなさいよ、元はと言えば、あんたを救う為に雪乃はこんな事になったの
よ。そんな姉さんをほっといて、あんただけ人並みの生活が送れるかしら?まぁ突然の話
だから、すぐに返事をしろとは言いませんわ。姉さんを見捨てて、この町を出るか、雪乃
共々、犬畜生となって私に飼われて働くか、二つにひとつお選びになって。」

(くぅうーーっ)

途方もない悪夢を見ている思いであった。得体の知れぬ不安と恐怖が千鶴の胸に、じわじ
わと広がってゆく。こんな馬鹿げた話が現実だとは信じられない。しかし今更、瑞恵の話
を冗談だと思える筈もなかった。

「今夜一晩考えて、明日には結論を出してちょうだいね!もし私に飼われる道を選んだら
その時は覚悟して、また此処へいらっしゃい。」

そう言うと立ち上がり、さっさと座敷を出て行く瑞恵。確信に溢れた笑みがその貌に浮か
んでいる。

(うふふ・・・千鶴は、きっと此処に戻ってくるわ。)

そして千鶴は、血の気の退いた貌で「泉水」を出ると、何処をどう歩いたかも分からぬま
ま「山吹屋」に辿り着いたのであった。いつの間にか日は大きく傾き、赤い夕陽となって
その暖簾を切なげに照らしていた。




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第四章 蜘蛛の糸