「あなたは蝮穴と言うものを御存知ですか?」
その時私はバス停のベンチに腰掛けて、キラキラ輝くネオンサインを眺めながら
ぼんやりと煙草をふかしていた。
「えっ?蝮と言うのは、あの毒蛇のことですよね?でも蝮穴って言うのは初めて
聞きますが・・」
「蝮と言う生き物は、ある時期になると群れをなす習性があるのですよ。ひとつ
の穴のなかに、それこそ何百匹何千匹もの蝮が体を絡ませ合って蠢いているので
す。そんな穴を私の故郷では『蝮穴』と呼んでいるのですよ。でもこれは、そう
そう滅多にお目にかかれるものじゃありません。私も小学生の時にたった一度だ
け見たきりです。子供心にもそれは怖ろしい体験でした。なにしろ数え切れない
無数の蝮が暗い穴の中で、うじゃうじゃと蠢いているのですからね。私は今でも
あの光景を忘れることが出来ないのです」
私は、ひんやりした夜風にコートの襟をかき合わせた。
「聞いただけでも、気持ち悪くなりますね。それにもしそんな穴に落ちたりした
らと考えただけでもぞっとします」
「実はね、その蝮穴に本当に落ちてしまった人もいるのですよ。いやなにこれは
私の祖父から聞いた話なのですが、なんでも落ちたのは若い女性だったそうです。
突然行方不明になったものだから村中大騒ぎで捜索したらしいのですが、とうと
う見つからず終いだったんですね。それからずいぶんと歳月を経たある日、一人
の小学生が野遊びの帰り道、ふとしたきっかけでその「蝮穴」を見つけてしまっ
たのです」
私が思わず身を乗り出して話の続きを聞こうとした時、ディーゼルエンジンの気
怠い音が近づいてきた。
「あっ、私のバスが来たようです。それではお先に失礼します」
私は、がっくりとベンチの背にもたれた。バスはまだ来ない。目を閉じた私の脳
裏を若い女を呑みこんで蠢く無数の蝮が這いずり回っていた。